GOINGの日記

本から得た考え方・知識を紹介し、悩みや迷いについてのヒントにしてもらえれば幸いです。

いつも静かに聞かないといけないことは花丸ではない

授業中子どもを指名したとき、周囲がなんだかうるさかったり、聞いてない雰囲気だったりしたとき、なんで声かけますか?

 

私は、

〇〇さんが発表してるんだけど、なんて言ってるか聞こえない。みんなは聞こえる?

 

ってパターンが多い。

 

すると、静かになり、その子に注目が集まります。

 

でも、今日、この指導に違った見方ができることに気付いた。

 

子どもの中にはしーんと静まり返った中だと発表するのに抵抗がある子もいる。

もちろん静かに聞いてほしい子がいる子はもちろん多数。

 

だから静かな中で発表するのに抵抗ある子が発表するときは静かにならない方が発表しやすいときがある。

 

だから誰の発表でも静かに聞がなければならないというのは、思い込みである可能性が高い。

 

しかし、じゃあ、その子の発表を聞かずに他のことお喋りしてていいかというとこれは違う。人は聞いてもらってると実感できるときに満たされる。だからその塩梅はすごく難しい。

 

何が言いたいかというと、いつも静かに聞かないといけないことは花丸ではないということ。

少し注目が集まらなかった方が安心する子がいるということ。

 

それを分かっている上でどう指導するか。

 

ここが大切である。

 

個別最適化。

 

どの子も一律ではない。

 

それを子ども同士で理解できる関係づくりができると、安心安全な環境が整うのかなあとも思う。

 

今日は、

〇〇さんが発表してるんだけど、なんで言ってるか聞こえない。聞いてる?

 

と指導したら、

 

ある子が鼻歌を迷惑でない音量で歌い出したことからこんな素晴らしい気づきを得られた。

 

特性を知る

ある先生の細かさ。

 

よく低学年の児童には色々と細かいところまで指導が行き届く先生が重宝される。

 

逆に高学年は大雑把でいい意味で適当な先生が重宝される。付け足しておくと、ここぞというときは逃さずみっちり指導ができることが大前提。

 

思春期にさしかかってくる子どもたちは、親を時にうっとおしく思い、話すことを拒む。けれども時として、話さないのに気持ちだけは察してほしいというなんとも理解できない思いでいる。

 

こんな子たちに、低学年担任のベテランが事細かに指導をすると、子どもたちとうまく関係を築けない。

担任からすると、高学年児童は指導を聞き入れない問題な子となる。

逆に高学年児童からすると、いちいち細かい指導をしてくるうっとおしくしい大人となる。

 

これは両者の特性を理解できていないから生じるわけで、互いに悪くはない。

 

特性を知る。

 

これは子ども理解の第一歩であり、とっても大切なこと。

多様性教育の難しさ

多様性を受け入れる。

 

多様性教育。インクルーシブ教育。

 

色々な立場や障害の有無など、全てを受け入れて生活していく。

 

これを実践するために、学校でも指導する。

 

考え方は多様。どの考え方がいいとか悪いとかではない。

その違いを受け入れることも大切だよ。的なこと。

オランダイエナプランを学びにも行ったし、現地校でインクルーシブに力を入れている学校も見学してきた。

 

自分は理解できてるから、やれていると感じていた。そう、やれていると感じていた。

だけど、最近全くやれてない気がする。

 

 

 

自分とは違う考えのあの人を、なんだか敵視していること。

 

自分のペースと違うペースで物事を進める人を、こうすれば速いのにと見下してしまうこと。

 

これって、自分とは違う人を排除しようとする考え方。

 

つまり、、自分が正しくて、これらの人は自分にとっては✖️の人になっている。

 

 

こんな自分が多様性を受け入れて、それぞれの人を尊重するんだよみたいな指導しているわけだ。

 

うむ、めっちゃくちゃぼくにとっては難しいことだぞ。むしろこんな感情を抱かずに生活できている人なんているのか?

 

どう考えていくといいのかな。

 

インクルーシブ教育。身近な人すら受け入れられていない。

 

もう一度書籍を漁り、理解を深めなくては。

 

 

 

見栄えの呪縛

運動会練習。

 

今年はコロナの関係で秋開催。

 

最近本当に思う。

 

なぜ運動会をするのか?なんのためだろう。

 

なぜ保護者が参観できる読者大会や、実験大会、掃除大会でものがないのだろう。ここにあげたものをどう実行するかは考えていないが、運動苦手な子を公開処刑のようなことをしないで、それ以外のその子が輝けるそれぞれの参観をしないのだろうか。

あっても授業参観1時間にクラス全員ができるようになったことを1人数分ずつで発表していくくらい。なぜ半日使ってやらないのかな?

 

運動会は全員を一斉に効率的に指導できて、見栄えもいいからだろうな。

 

その見栄えが問題である。

 

教師は見栄えにこだわる。子どもの主体性や自主性よりも、見栄えが気になる。

 

この見栄えの呪縛から解き放たれないと、運動会は教師が思うように子どもたちを動かす、極端な言い方をすれば言いなりの子を育てているように感じる。

 

無理矢理一致団結させるような声かけをしたり、誰のための運動会だと思ってるのとかいう指導をしたりする教員。

 

見栄えをよくしなければいけない、見栄えがいいと指導力があると思われるような呪縛、

 

教育現場にこびりついている。

 

 

 

もっと肩の力を抜いて、

 

もっと心から楽しめる、

 

行事にしていくことが、現場の課題である。

 

誰のために、なんのために行うのか

 

これを問い続けていくことが、子どもも教師も幸せになる大切なことだと思う。

 

 

 

 

 

 

興味関心はその「時」が旬!

先日、家族でホームセンターに行った。

 

そこにはメダカや金魚もいる。

 

うちの息子は生き物が大好きで、土日の楽しみはもっぱら虫探し。

 

ここ3ヶ月くらい毎週土日は虫探しに出掛けている。

 

季節も変わり、次第に生き物が減ってくる。けれど就学前の息子にはなかなか理解できない。

 

そんな時、ホームセンターでメダカを見た息子は買ってほしいと駄々をこねる。

 

今うちには数種類の虫が飼育カゴの中にいる。

だから、虫カゴの生き物たちを自然に返してあげてからにしようと提案する。

 

しかし息子は引かない。

挙げ句の果てには大声で泣きわめいた。

 

最後は力尽くで車に乗せて帰ってきた。

 

ふと思う。

 

メダカを見た時、飼いたいと直感が働いたとしたら?

飼うことでメダカの生活リズムや食事についての生態について学ぶチャンスじゃなかったのか?

 

それを大人の都合でそのチャンスを奪ってしまっていたら?

 

興味や関心があるその時が1番の学びのチャンスなのである。

それはイエナプラン  研修でも学んだことである。

 

結果、悪いことをしてしまったということで、今週末はメダカ探しに出かけようと思う。

 

どうしてこんな考えに至ったかと言うと、今週から新刊を読み始めた。

 

おさるのジョージ」を教室で実現: 好奇心を呼び起こせ! https://www.amazon.co.jp/dp/4794811624/ref=cm_sw_r_cp_api_i_ujaKFb10SMJVH

 

好奇心の強い子は学力が高いそうだ。

 

子どもの言いなりになり、ほしいものを与え続けるのはいかがなものかと思われるかもしれない。我慢できない子に育ってしまうのでは?

と思うかもしれない。

 

でもでも、それって本当かな?

大人の勝手な思い込みじゃない?

エビデンスある?

 

僕はある程度ほしいものを欲しいときに買ってもらってきた。

でも今は消費が激しすぎて困ると言うことはない。

 

もしそういうデータや研究があれば本当にぜひ教えて欲しいです。

 

そうなると今週のメダカ探しも考え直さなければ…

 

生きた学び

デンマークにはフォルケホイスコーレと呼ばれる民衆の大学がある。

以下、教育新聞2020年9月21日号

世界の学校、世界の潮流 武田緑氏の記事を引用

 

18歳以上であれば誰もが入学することができる。寄宿舎制で、いつでも誰でも入学可能。たまに歌を歌い、、食事をし語り合ったり体験したりすることが大切にされている。

 

学生たちは、本の中の文字ではなく、互いに生きた言葉で対することを通して学び合い他者と共生しながら自分らしく生きる道を見つけていく。

 

ここを卒業したからと言って何か資格が付与されるわけではない。つまり就職に有利でもなく、キャリアアップにもつながらない。日本の感覚で言えば、

 

なぜそこに学びにいくの?

 

と思ってしまう場所である。にもかかわらず、フォルケという学びの場が存在する。

 

引用終わり

 

社会からは特段評価されない大学で、何を学び、自分の人生に繋げていくか。

これが、ここに通う目的であると思う。

 

まさに、人生そのものである。

 

今の日本はそれを見失っている。

いい高校に入るために、いい大学に入るために学習する。

 

フォルケはそうではない。

自分がどう成長していくかに焦点が当たっている。

 

こんな人生は本当に素晴らしい。

 

楽しい。価値がある。

 

こんな社会に日本やなってほしい。

さて、ぼくは何ができるか?

 

そんなデンマークのような社会が存在することを日本社会に周知してもらうことも一手であると確信した。

 

 

 

時間不足+精神的疲労=精神の崩壊

友人が今、大変な状況。

 

クラスの子が休み時間に怪我をして、裁判になりそう。

 

この際の友人の対応は、被害者への家庭訪問、加害者への連絡、そして時系列でのそれぞれの家庭へのやりとりの書き起こし、対象児童への指導したことの書き起こし。

 

全て記録していかないといけないし、日々の授業準備も合わせてしていかなければならない。

 

物理的に時間が足りない。

 

そんな中で、気を遣いながらの保護者連絡。

 

つまり

時間不足+精神的疲労である。

 

この結果は精神の崩壊。

 

大切な友人がそうなっていくのを見ているしかできない。気が気でない。

 

教員として熱意ある人はそういう状況に追い込まれると、自分を責める。

自分を犠牲にして、何かできることはないかと探る。

 

けれど、この考え方がそもそもまずいと感じる。

 

裁判沙汰になるほどのトラブルの詳細の記載は意図的に避けているが、簡単に言うと今のところ担任としての友人の落ち度はない。

 

けれども、、自分を責めるという構図が出来上がってしまう。

真面目であるほど、熱意があるほど。

 

そんな時に客観的にできることは、本人へのアプローチではあなたの存在が私にとっては助けになっているということを伝えること。

あとは、その渦中の人の周囲の人へのアプローチ。

 

とにかく、、その友人の存在をそのまま受け入れる。

 

こうしていくと精神の崩壊は遅らせることができる。

毎日、、決まった時間に電話する、もしくは会いにいく。などの手段を使ってなんらかのつながりをもつ。

 

相手の精神状態がもう全てのことがどうでもいいやってなってたり、話すことが疲れる、そもそも、会ったり話したりすることを避ける状況は要注意である。

 

自分を愛して!―病気と不調があなたに伝える〈からだ〉からのメッセージ https://www.amazon.co.jp/dp/B083QDYMWV/ref=cm_sw_r_cp_api_kpcHFbS02CD8Z

 

この本にある考え方はそんな時にきっと役立つ。

 

人は1日で鬱になる。

 

そして、負のスパイラルにはまればそのスピードは加速していくのみである。

 

絶対に友人を崩壊してしまう前に休養させてやる。